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東日本大震災 the Tohoku Earthquake

2011年3月11日(金)
14時46分、三陸沖で、M9.0(震度7)の地震が発生した。(いわき市は震度6強)
これは日本の観測史上最大で、アメリカ地質調査所 (USGS) によれば世界でも1900年以降4番目の規模とのことである。
両親、家内、次女、長男はいわき。長女は千葉。私は品川で震災に遭遇。
なお、両親は一丁目実家で、家内は勤務先で、次女・長男は春休み中で三丁目自宅にいた。長女、私は、それぞれの勤務先でにいた。
・15時27分、福島第一原子力発電所に津波第一波。
・16時30分ごろ、品川からようやく次女の携帯につながり無事を確認。次女・長男は一丁目の実家で壊れた食器の後かたづけをしていた。両親も無事。家内も無事を確認。
・19時03分、枝野幸男官房長官が記者会見で原子力緊急事態宣言を発令。
・20時50分、福島県対策本部から1号機の半径2kmの住民1,864人に避難指示が出された。
・21時23分、菅直人内閣総理大臣から1号機の半径3km以内の住民に避難命令、半径3kmから10km圏内の住民に対し屋内待機の指示が出た。
このころ、東京では大量の帰宅難民発生中。
2011年3月12日(土)
・3時05分、海江田経産相は記者会見で、原子炉格納容器の破損を防ぐため、1号機に関してベント作業、すなわち格納容器内の蒸気の放出作業の実行を発表。
・7時すぎ、菅直人首相が、ヘリで第1原発に降り立ち、1時間弱滞在し、職員らから状況の説明を受ける 。
・10時17分、電源喪失状態の中、手作業でベント作業が開始されたが難航。
・14時30分、最終的にベテラン作業員1人の手により弁の開放は成功し、格納容器の破損は免れた。
しかし10分ほどの作業で106.3ミリシーベルト(約10万マイクロシーベルト)の放射線を浴び、作業員は病院に搬送された。
15時36分頃、1号炉付近で水素爆発が発生。白い煙が確認され、東京電力社員2名、協力会社の社員2名が負傷した。
2011年3月14日(月)
11時1分、3号機の建屋が爆発。大量の煙が上がった。
・夕方、両親の介護マネージャーから、介護ヘルパーが被災したりガソリン不足だったりして人員不足となり、明日以降の介護ヘルパーが手配できないとの連絡あり。
明日朝一でいわきへ戻ることにする。
2011年3月15日(火)
・5時30分、武蔵小山駅を出発し、上野経由で取手駅に8:30着。取手以北は地震の為、電車はストップ。
・6時10分、2号機に関し、圧力抑制室付近で異音発生。
・6時14分、4号機に関し、音がして壁の一部破損を確認。
・6時56分、4号機に関し、建屋の上が変形した模様。
・8時25分、2号機に関し、建屋5階付近から白煙確認。
・8時30分ごろ、取手駅周辺でレンタカーを借りようとしたがどこもダメ。こういうときはレンタカーを貸さない模様。
バスも取手近辺行きだけで長距離はすべて運休。
自宅に電話したところ、つくば→水戸の高速バスが動いているという情報。
秋葉原からつくばに向かえば良かった。取手からタクシーでつくばへ。
・9時38分、4号機に関し、建屋3階北西付近より火災確認。
・11時00分、つくば到着。12時ちょうど発予定のバスあり。しかし、満員になったので11時30分発車。
・12時30分、水戸駅南口到着。南口側からのバスの発着はないということで、北口側へ。
水戸駅も被災し閉鎖されていて、駅の中を通って北口側へいけない。20分以上遠回りし歩いて北口側へ。
途中、倒壊した古い商店が何件もあった。やっと北口についてが、長距離のバスはすべて運休。日立方面のバスもストップ。
やむなく水戸駅からいわきまでタクシーで向かうことにした。タクシー運転手と料金交渉。相場はキロ300円。現金は3万円しか残っていなかったがなんとかセーフ。水戸-いわきは約90kmだから27,000円ということで交渉成立。
途中、ガソリン待ちの渋滞に何度も巻き込まれたが、日立を過ぎたあたりから渋滞がなくなった。高萩を超えたあたりから反対車線(東京行き)が渋滞していることに気づく。反対車線でもガソリン待ちと思っていたら、どこまでいっても反対車線は渋滞していて、小名浜あたりまで続いていた。あとで考えると、福島脱出の渋滞だった。
タクシーのラジオから原発1,3号機の爆発に続いて2号,4号からの異音や白煙の情報が流れており、逃げ出すのも当然か。
そういう中、自分(とタクシーの運転手)はまったく逆方向に急ぐ。
・16時ごろ、三丁目自宅に到着。タクシーは、郡山経由で戻ると話していた。(6号線東京行き車線は大渋滞)
自宅はガス、水道がストップ。家内と次女、長男の3人で給水車に並んだりしていたとのこと。ガソリンは2台の車とも11日夕方満タンにしておいたとのこと(さすが)。食料は、日頃から家内は仕事の関係で買い物できないとのことで生協のpal-systemを利用。冷凍食品も買い込んでいたためなんとかなっていた。
断水しているので、食器を洗えないので食器にラップをかけて使用。こんなこと誰からも教えてもらっていないのに、うちだけじゃなくてどこでもやっていた模様。考えることはみんな同じということか。トイレの水は風呂にたまっていた水を使用。
お菓子やジュース類がなく、わたしが上野駅で買ったお菓子とポカリスエットは好評だった。

2011年3月17日(木)

警視庁高圧放水車 自衛隊救難消防車

・9時48分、使用済み核燃料プールの水位が低下していた3号機に対し、陸上自衛隊第1ヘリコプター団のCH-47ヘリコプター2機が消火バケットを使い、計4回30トンの放水を行った。
・19時5分からは警視庁機動隊の高圧放水車、同35分からは自衛隊の各飛行場から集合した大型破壊機救難消防車と救難消防車が3号機に対して放水を行った。
2001年3月19日(土)

・0時30分 - 1時10分、東京消防庁消防救助機動部隊が約350メートルにわたって手作業でホースをつなぎ、屈折放水塔車から3号機に向かって毎分約3トンを放水した。
安定ヨウ素剤の配布に係る市長メッセージ(平成23年3月18日9時発表)
・9時30分。スーパー再開。9:30から並んで12:00ごろやっと入店。父親の紙おむつをまず購入。カップ麺は全部売り切れ。商品は結構揃っていた。断水しているので料理するようなものはダメ。食パンは山積みになっていた。何を買ったか忘れたが、レジで並んでいたら、別のレジの行列のところでおじさんと若い女性が言い争い。女性は、おじさんがもっていたカゴ(もちろん中にいっぱい商品が入っている)は自分のだといって譲らない。結局、女性のカゴはすぐ近くに置かれていた。女性の負け。レジを待つ長い列に並んでいる途中で女性は追加の買い物を思い出し、カゴをその場に置いて買い物し、再び戻ってみたらカゴはない。すっかり自分の買い物と同じようなカゴを持っていたおじさんが横取りしたと思いこんだらしい。普通なら考えられない勘違いだが、みんな殺気立っていた。
●2011年3月20日(日)
・ガソリン不足。家内が6:30から並んで14:30にやっと給油。
●2011年3月21日(月)
・10:00、常磐道が再開。家内が次女を水戸まで車で送る。次女の部屋では電子レンジ落下、本も落下。
●2011年3月28日(月)・水道が復活。介護ヘルパーさんも朝夕復帰。
●2011年3月31日(木)・高速バスで東京へ戻る。


●2011年4月11日(月)・大震災からちょうど1カ月。そろそろ両親宅の屋根瓦、温水器の不調、玄関ドア不調をなんとかしようと業者に電話。そんな矢先、夕方いわきで大きな余震あり。震度6弱。再び断水。まだまだ大震災の余波は続く。
●2011年4月13日(水)・水道復活。
●2011年4月20日(水)・長男(高3)がボランティア活動を始める。
●2011年5月3日(火)・次女の電子レンジ購入
・一丁目給湯器交換(電気温水器→ガス)270,000円
・三丁目アンテナ交換 100,000円
・三丁目アンテナ配線修理 12,000円
・一丁目アンテナ配線修理 12,000円
●2011年5月21日:東部ガス支払完了 168,000円(ガス管交換工事)
●2011年6月1日:一丁目庭木整理
●2011年10月11日:いわき市北部の小中学校再開
●2011年10月23日:地域の除染作業実施

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開始:2011年5月27日
最終更新:2011年10月14日